安心安全に大自然にまみれてみたい
昆虫好きの友達がいます。
子供の頃は「虫博士」と呼ばれていたらしく、今でも子供と虫捕りに行くと子供よりも熱心に虫を探すのだそうです。
この前なんかは、僕が「あ、カミキリムシだ」と言うような場面を、「お、ゴマダラカミキリじゃん」と息を吐くように正式名称で呼んでいました。
けれども、そんな彼でも「ギンヤンマ」を捕まえたことはないんだそうです。
僕も小学生の頃に持っていたような気もする知識ではあるのですが、なんでもギンヤンマって捕まえるのが難しいんだそうですね。
数も少なければ、飛び方も独特で難易度が高いんだとか。
それで彼は人生初のギンヤンマゲットを試みるべく、先日、休みの日に「ギンヤンマが出る」という噂の場所に子供を連れて行ってきたそうです。
結果は「×」。
いたはいたらしいですが、1匹しか見付からず、捕まえることはできなかったそうです。
そんなエピソードを微笑ましく聞く僕は、思いを馳せました。
「江戸時代ならギンヤンマっていっぱいいたのかなー」
なんで急に江戸時代?って思うと思うんですが、最近『一日江戸人』っていう本を読んで、よく江戸時代のことを考えていたのです。
例えば昔はホタルがそこら中にいたって言うじゃないですか。
メダカもいっぱいいたし、ウナギもいっぱいいたのかな。
まだ自然が溢れていた時代、昆虫の生態系もさぞ豊かだったのではあるまいか、ということでギンヤンマもそこら中に飛んだりしていたのかしら、というのがその時の思いの馳せ方です。
あっちも山を切り崩し、そっちも森をなぎ倒し、どんどん開拓が進んでいく。
少子高齢化の時代であろうとも構わず進む人間の居住領域の拡大。
自然の偉大さ幽玄さを訴え、共存の道を示した『もののけ姫』しかり、開拓に対して狸目線で問題提起した『平成狸合戦ぽんぽこ』しかり、警鐘的な作品はこれまでに日本でも生み出されたわけですが、結局人は止まらない。
かく言う僕の住んでるこの場所だって、かつては山でした。
仕方がないのかしら。
その手の知識のない僕にはわからないけれど、自分勝手にも僕が思う気持ちをただただ述べるならば、もっと自然的な物を大事にしてほしいな、なんて思ったりするのでした。
もちろん自然って時に脅威です。
山は崩れるし、川は氾濫するし、波は押し寄せるし。
クマだってイノシシだって怖いし、かつてはオオカミだっていたんだし。
そういう諸々の脅威から身を守るために、いろいろなところで工夫を凝らして脅威から身を守ってきた経緯がある。
例えば、自然のままにするのではなく、山や川を整備したりして。
それを考えると、なるほど、今こうして安心安全の中暮らしていけるのは先人様方の努力の賜物であるのだな、とも思います。
まあ自然をおびやかして自ら招いた脅威もありますが、でもおおむね自然的脅威によって命がおびやかされる心配はどんどんと下がっているのだと思います。
だから、自分勝手にもその努力の賜物を脇に置かせてもらって、率直な思いだけを述べるとするならば、大自然をもっと大事にしてほしいな、ということなのでした。
ぜひ自然が豊かであったほしいな、と思うのでした。
山は緑いっぱいに溢れて、川はどこまでも澄んでおり、海は絵の具をこぼしたような綺麗な青。
かつて松尾芭蕉が見た日本三景の「松島」だって、それらの条件が揃っていたからこその三景だったように(宮城県民の)僕は思います。
でも人が暮らしていく以上は仕方がないのかしら、というジレンマ。
でももうちょっと大事にしながらできるような気もする、という勝手な思い。
人って不器用なのかな。
なんて、かつて庭に川が流れている家に住むことを夢見た僕は思うのでした。
ちょっとだけ江戸に憧れる。
おしまい